当地区は岩手県のほぼ中央に位し、花巻市を中心として、北上市・石鳥谷町の2市1町にまたがる県下有数の穀倉地帯である。
この沃土開発は、今からおよそ290年前(西暦1716年)旧南部藩士伊藤久慶が20年余の歳月を費やし、元文元年に現在の新田堰を設け約320haの美田を造成している。これが端緒となってその後逐次、豊沢川・瀬川等の水源を利用して水田が増加し、その面積は約4,300haに及んだ。しかし、耕地の開発に伴って、用水量は年々不足を告げ、大小幾多の取水堰は極度に取水困難になり、水利紛争を惹起するなどしばしば干害に悩まされた。このような状態を根本的に改善し、農民不安を解消するため、昭和13年12月県営事業をもって豊沢川上流に大貯水池を築造することになり、旧来の各堰水利用組合を合併、稗和西部耕地整理組合を組織し、その解決にのりだしたのであるが、第二次世界大戦の勃発、そして戦後の社会情勢等から、事業は一時停頓の状態に陥った。しかしながら、地区民の熱望によって、ダム築造は昭和24年国営事業に引き継がれて着工の段階を迎えるに至った。
一方、地元推進体制も着々と進み、土地改良法の制度に基づき昭和25年12月27日従来の耕地整理組合を組織変更し、ここに稗和西部土地改良区を設立、その後において豊沢川土地改良区と名称変更を行い、悠々充実した態勢を整えるに至った。
このようにして待望久しかった豊沢ダムは、昭和36年に完成し、多年の宿願が達せられた。一方この間、国営事業の促進に伴い、昭和30年から新たな県営用水改良事業として、新田堰・宮野目両頭首工と主要幹線水路工事が施行され、39年度において全事業が完成した。
土地改良区はこの国営事業と並行して土地基盤整備を行い生産性の向上を図るため、昭和30年全域にわたる大規模区画整備事業計画を樹立して翌31年以降実施し、その施行面積は約3,700haに及び、当初計画のほとんどを完成した。
しかし、昭和45年以降米の過剰問題を軸として、農業をとりまく内外情勢は厳しさを増し、この中で米作一本から適地適作、すなわち汎用化耕地の基盤整備が、今日、不可欠な重要課題となり、昭和48年県営大規模圃場整備事業実施地区の採択を受け、以来組合員の積極的な協力のもとに年次計画をもって、用排水施設の整備を基幹として30a圃場、暗渠排水、農道等関連する事業を有機的に実施している。また、平成4年度からは事業の内容も担い手育成基盤整備事業と拡大され、1ha水田並びに担い手農家への農地の集積が推進されている。
農業農村の環境整備や農業の近代化、合理化が進むことにより、加速的な地域の発展が大いに期待されているところである。
当改良区はこれら県営圃場整備事業に係る換地業務の委託を受け、早期処分に鋭意努力しているところである。 |